浅学菲才の嘆息

吉田裕さん編集の「戦争と軍隊の政治社会史」を読んで

 本書は吉田裕氏が編集した論文集である。吉田裕氏は、2020年3月末に一橋大学退職を機に、その教えを受けたゼミ生が、吉田裕氏のこれまでの研究してきた「戦争と軍隊の政治社会史」の視点から、最新の研究成果を持ち寄り、退職を祝うために編纂された。吉田裕氏は、著書「日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実(中公新書)」で、2019年新書大賞を受賞。2019年11月号の雑誌の巻頭エッセイで吉田裕氏は、長年にわたって集めた書籍や資料が、大学退官を機に行き場がないことを嘆いておられる。しかし、その膨大な資料こそ歴史を正確に検証する重要書類であり、政府のご都合主義による「歴史戦」などといって「歴史修正主義」を当然視することに対する、厳しいアンチテーゼを持つのも吉田裕氏であると私は信じている。

 3部12章から構成される論文集は興味深い内容が凝縮されている。

 第1章第3部「日本兵達の『慰安所』-回想録に見る現場(平井和子)」では、日本、朝鮮、中国などの女性慰安婦問題を指摘しつつ、一方で「兵士への性暴力」を検証している。「強いられる『女役』初年兵への性暴力」として、大和乗組員になった兵士の回想では、「はっきりいいますとね、大股スマタ、尻、肛門、尺八、手の4つのうちどれかで『女』をつとめさせられるのですが、こっちはいやですよね。だけど断ると制裁が怖いから、しかたなく承知する」との証言録がある。また、別の兵士は、「変態性の」一、二の上官に「色白で美男子の初年兵」が「慰安婦代役」を務めさせられたと言う。「数日後から痔からの出血、体力消耗で入院する羽目になった悲運の男もいた」とし、「これも上官の命令には絶対服従しなければならない私的制裁にも劣らぬ野蛮な行為である」と記している。性行為を上官から強要された寡黙な初年兵にとって、これは性暴力であろうと断罪する。

 第1部第4章「新中国で戦犯となった日本人の加害認識(張宏波)」では、帰国後医師教育を受け直し民主診療所の内科医師を続けるかたわら、中帰連の中心者として平和活動を重ねた湯浅謙医師が紹介されている。特に、生体解剖の経験を語る数少ない医師として、市民を相手に600回以上の講演を重ねた。語られる罪行の残虐さだけでなく、その語り口も戦後世代に強い印象を残すものとして、戦争に染まってしまうことの恐ろしさを伝えようとしていた。

 巻末の吉田裕氏のまとめでは、戦後の日本社会においては、戦争や軍事組織を全面的に否定する平和主義が強固に存在していたため、ミリタリーカルチャーは、現実社会での軍事・安全保障問題とは切り離された映画・漫画・アニメ等などの「ミリタリー関連趣味」の領域で形成された。ミリタリーカルチャーは、社会の中心部ではなく周縁部分形成されたのである。しかし、同時にそのことは「平和・安全保障をめぐる議論の場で、戦争・軍事のリアリティーがしばしば隠蔽・忌避されるという逆説をもたらした」と指摘する。戦争や戦場のリアルな現実を視野に入れ社会のなかの軍隊の存在を問い直すことによって、日本人の平和意識をより確かなものにしたいという思いが伝わってくる。軍事研究史が大きく立ち後れた日本の現実を考えるならば、答えは簡単ではない。自分なりの回答を模索したいとして、退官したとはいえ、吉田裕氏の研究は続くのである。

 

目次

序章 現代歴史学と私達の課題(大串潤児)

第1部 身体と記憶の兵士論

第1章 国府陸軍病院における「公病」患者たちー昭和14年度・18年度における「精神分裂病」患者の恩給策定状況(中村江里)

第2章 戦傷/戦病の差異に見る「傷痍軍人」(松田英里)

第3章 日本兵達の「慰安所」-回想録に見る現場(平井和子)

第4章 新中国で戦犯となった日本人の加害認識-供述書と回想録との落差を通じて(張宏波)

第2部 軍隊・戦争をめぐる政治文化の諸相

第5章 軍隊と紙芝居(大串潤児)

第6章 南次郎総督と新体制(金奉湜)

第7章 講和後の基地反対運動-長野県・有明における自衛隊演習基地化問題(松田圭介)

第8章 戦後地域社会の軍事化と自治体・基地労働者(森脇孝広)

第9章 メディア言説における韓国の対日認識と歴史教科書問題(李宣定)

第3部 天皇制の政治社会史

第10章 東條英機内閣期における戦争指導と御前会議(森茂樹)

第11章 昭和戦時期の皇室財政(加藤祐介)

第12章 国会開会式と天皇-帝国憲法日本国憲法の連続と断絶(瀬畑源)

終章 戦後歴史学軍事史研究(吉田裕)

あとがき

 

吉田裕編:戦争と軍隊の政治社会史.大月書店,2021(7月22日第1刷発行購入)

www.otsukishoten.co.jp

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