浅学菲才の嘆息

猿田佐世さん編著の「米中の狭間を生き抜く 対米従属に縛られないフィリピンの安全保障とは」を読んで

 編著の猿田佐世氏は、弁護士として外交問題を研究する新外交イニシアティブ(ND)代表を務める。日本は、敗戦後の米軍占領統治と日米安全保障条約日米地位協定により、米軍駐留を許し続け、駐留米兵が起こす事件も日米地位協定が警察や司法権を大きくゆがめる。一方のフィリピンは、アジア太平洋戦争後に米軍駐留を許し、ベトナム戦争では日本の沖縄同様にアジアの重要な拠点となる。しかし、1965年に誕生したマルコス政権の独裁政治を経て、非暴力を貫くベニグノ・アキノの暗殺で、大きな国民運動となりピープル・パワー革命でマルコス政権を退陣させ、妻のコラソン・アキノ政権で民主化をはかる。国民的議論を深め、米軍駐留撤退を勝ち取り、旧米軍基地を経済利用して、めざましい経済発展を遂げる。しかし、中国の脅威と米軍の圧力に対して微妙な外交バランスを取りながら、比米軍事訓練は日本より数多く実施するなど安全保障政策を続ける。米軍が駐留しない中でしたたかな安全保障と外交政策で、紛争や戦争を回避し、非核政策をとりつつ、貧困と格差の課題は残しつつも毎年の経済発展を続けるフィリピン。一方で、フィリピンも加盟するASEAN東南アジア諸国連合)も米中が無視できない組織として、国際平和への存在価値を高めている。

 本著で、フィリピンの歴史と外交政策を学ぶ時に、同じアジア圏であり北東アジアの平和外交日本を展望し、沖縄県の一部の駐留米軍基地撤去後にめざましい経済発展を遂げている例など、対米従属路線一辺倒の日本の外交政策を見直すべき視点、国民世論と民主主義成熟の重要性を痛感した。

 

<蛇足>

 フィリピンは、16世紀から333年間スペインの植民地支配が続き、19世紀後半に米西戦争で米軍支配となり、1941年旧日本軍が侵攻し、マニラに軍政を敷いた。アジア太平洋戦争後は、再び経済的、軍事的な面からアメリカの実質支配を受けながら歩むことになる。アメリカ流の政治システムが採用され、大統領制や上院・下院の2院制が導入された立憲共和制をとる。しかし、民主主義は形骸化し、1965年に誕生したマルコス政権は、1972年に戒厳令を敷き、独裁政治を行った。議会は閉鎖され、政治機能が停止した上、反体制的な政治家やジャーナリスト、活動家など8000人が拘束された。マルコスの政敵であったベニグノ・アキノ上院議員は7年8ヶ月も牢獄につながれ、病気治療でアメリカに亡命した。ベニグノ・アキノが帰国した直後にマニラ国際空港で暗殺された。この暗殺事件を機に反マルコスの国民的な運動が大きく広がり、ベニグノ・アキノの妻であったコラソン・アキノが大統領に選ばれた。エデゥサ革命、ピープル・パワー革命、2月革命などと呼ばれる。この民主主義革命による景況は、フィリピンが世界77カ国中1位の民主主義先進国となっている(電通総研・同志社大学第7回「世界価値観調査」2017年~2021年)。

 マルコス独裁政権市民運動の形成により、コラソン・アキノ大統領はフィリピン憲法制定議論を進める。憲法制定委員会は多彩な顔ぶれで、最大の争点となった米軍基地と非核政策を含む憲法草案を採択した。米軍基地駐留については、フィリピン国内の世論は大きく割れ、アメリカ軍も圧力をかけたが、国民や議会の働きかけもあり、最終的にはアキノ大統領は1991年12月7日に、米政府に対して、翌1992年末までにスービック基地から米軍を撤退させるように正式に通告。1992年11月24日、停泊していた艦船等は日本の佐世保へ向かい、在比米軍基地はその歴史に幕を下ろしたのである。

 フィリピンの人びとの「真の独立」への積年の思いが議会を動かし、1992年をもってフィリピンの人びとは国内の米軍基地撤去を実現した。

 

猿田佐世(編著),元山仙士郎,島村海利,三宅千晶,巖谷陽次郎:米中の狭間を生き抜く-対米従属に縛られないフィリピンの安全保障とは.かもがわ出版,2021(12月8日第1刷発行,2023年2月28日第2刷発行購読.

 

www.kamogawa.co.jp

honto.jp