浅学菲才の嘆息

藤津亮太さんの「アニメと戦争」を読んで

 アジア・太平洋戦争の戦時下の日本で、アニメは新聞やラジオと同様に戦意昂揚のプロパガンダを担い、「桃太郎海の神兵」などで戦争を描いた。この時代を生きた人びとは、戦時の「状況」を知り、出兵の見送りや空襲を「体験」した世代である。戦後復興を経て、1960年代に至り、泥沼のベトナム戦争を背景に、再び戦争や米平連などの反戦運動が取り上げられるようになる。それは、少国民として生きた世代の戦争体験をした水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」の「妖花」に代表されるシリーズとして戦争が「証言」される時代になる。1970年代に入ると、宇宙戦艦ヤマト機動戦士ガンダム、時空要塞マクロスなど、実在の戦争から架空の戦争へという大きな変化が生まれる。一方で、1970年後半から「ガラスのうさぎ」や「対馬丸」など、太平洋戦争を題材にした作品が多数制作公開される。1990年代に入り、冷戦終了の世界情勢の影響を受けた作品として「紅の豚」などが上映され、「萌えミリ」や「艦隊コレクション」など、美少女とミリタリー要素を組み合わせた作品へと移行していく。2010年を迎えて、あらためて「記憶」の時代としての、宮崎駿監督作品の「風立ちぬ」、や片渕須直監督の「この世界の片隅で」などの作品で、戦前の生活を丁寧に描き出し、記憶考証を行う。

 普段何となく見ている映画、動画のアニメなど、あらためて歴史的背景とした時代考証としてのアニメを整理する上で、読むと納得の1冊ではないだらうか?

 

 なお、ここからは、個人的な話しになるが、宮崎駿監督の「風立ちぬ」を映画館で見て、なんとも理解しがたく、結局5回映画館に足を運んでも理解が深まらなかった。そこで、エンディングに感謝の言葉が流れる、堀辰雄の「風立ちぬ」「菜穂子」を2度読みし、堀越次郎の自伝と戦争指導部批判を読み込んで、やっと消化できたように思う。映画「風立ちぬ」は、縦横に難しくも、平和を大切にした作品であると再確認した。

 また、本編で指摘がある通り、宇宙戦艦ヤマトの第1作で、ガミラス帝国の街並みを壊滅的に破壊した直後の甲板で、雪は叫んぶ。「私たちは何ということをしてしまったの。私にはもう神様の姿が見えない」。古代はつぶやく。「勝つものもいれば、負ける者もいるんだ。負けた者はどうなる。負けた者は幸せになる権利はないというのか。今日まで俺はそれを考えたことはなかった。俺は悲しい。それが悔しい。ガミラスの人も、地球の人も、幸せに生きたいという気持ちに変わりはない。なのに、我々は戦ってしまった。我々がしなければならなかったのは、戦うことじゃない。愛し合うことだった。勝利か、くそでもくらえ!」」と戦争の愚かさを訴える。しかし、帰路にガミラスデスラーの再攻撃を受け、徹底交戦を行い撃破する。以降、シリーズは、敵に打ち勝つ、戦死による自己犠牲、自爆・自沈と言った、特攻とも言える攻撃も継続する。さらば宇宙戦艦ヤマトでは、日ロ戦争の二百三高知で肉弾突撃をする際の白タスキ隊を編成して艦上白兵戦を行うなど、戦争美化の要素が少なからずあることも付け加えておきたい。

 あぁ、嘆息、嘆息。

 

藤津亮太:アニメと戦争.日本評論社,2021(2月28日第1版第1刷発行,2021年4月5日第1版第2刷購入)

 

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