浅学菲才の嘆息

沢山美果子さんの「性からよむ江戸時代-生活の現場から」を読んで

 性にまつわる話しは敬遠されがちだが、江戸時代からの性の営みを通して現代の性を見つめ直すのも良い機会ではないか。江戸後期は、性の営みやいのちの問題を考えるときに、大きな画期をなす時代。家を守り子孫に引き継ぐために子どもと子どもを産む女いのちを守ろうとする意識が高まり、医者や産婆が各地域に誕生する。一方で、家を維持するために、飢饉等の食糧難により、子どもの数を減らしたり、出生間隔をあけたり、時には堕胎、間引き(出生後赤子を殺す)、捨て子をする、など少子化への志向がみられる。幕府や藩は、人々の出生への意識を取り締まり、人口を増やすために、妊娠出産を把握し。堕胎・間引きを監視する仕組みを作った。

 

 「おわりに」に込められた作者の思いに共鳴して

 

おわりに(引用)

1995年に北京で開かれた第四回世界女性会議では、「強制や差別を受けることなく、性について自由にコントロールする女性の権利」が「性の権利(sexual rights)として提起される。女性たちは、性の権利を守れているか、自由に行使できているかといえば、性の問題は現在も大きな課題であり続けている。

 生きることと切実に結びついていた江戸時代の女と男の性の営みは、私たちに、生きることの原点から性の問題を考えることに、歴史に学ぶことを求めているのではないだろうか。

 本書がそのささやかな手がかりになればと願っている。 

 

【 閑話休題 1 】

 

本書では、出生のコントロール手段として、間引き(出生後赤子を殺す)の場合には、女の赤子を殺し、女性比率を下げる工夫をしていたことが明かされる。広く見れば男尊女卑の影響はこういった場面でも見られるのだろうか?また、1830年天保の飢饉以降1860年の性比は女性100に対し男子104となっており、2017年の人口動態統計の性比も女子100に対し男子104.9であり、19世紀中頃から現代まで同様の傾向が続くことになるようだ。

また、P90には

 

 仙台藩黒川郡の一農村の女と子どもの増加が、妊娠・出産管理制度や仁平治の教諭とどう関係していたのかはわからない。ただ五十年の間に、産む女の身体への配慮や、産む、産まないことの選択をめぐって何らかの変化、さらにその背後に家の維持・存続への意識の高まりがあったことを予測させる。 

 この点に関する考察として、3つの視点で考えてみたい。

(1)食料となる、米の視点から

2020年中公新書より佐藤洋一郎さんの「米の日本史」が発売された。日本の米生産の歴史を追いかけていくと、江戸期は飢饉がありながらも食糧増産を続けていたことがわかる。飢饉などの食糧難から、子どもを産むことに関する堕胎、間引き、捨て子をすることは減ったのではないだろうか。また、戦国時代から安定した江戸自体においては、戦時に必要な兵站が不要になったことも農民の生活を安定させた要因になったのではないだろうか?

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(2)村の遊び日の視点から

2020年中公新書より藤野裕子さんの「民衆暴力-一揆・暴動・虐殺の日本近代」が発売された。民衆一揆の視点からは、18世紀の時点で既に「村の遊び日」が設けられており、農民達が貧しく、苦しく生活を耐え忍んで休みなく働いていたという面だけでは捉えにくく、やはりある程度食糧増産と物資の流通が進んでいたのではないかと思われる。

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(3)産児制限運動

山本宣治代議士が1923年1月に産児制限研究会を発足させ、全国に普及する歴史がある。労働者・農民の多産による生活苦に対して、山本宣治は性教育を通じた産児制限、避妊の考え方を普及したことから、出生のコントロールに至るのは大正末期から昭和に至る過程を経てからの考えであろう。但し、その後の日中戦争アジア・太平洋戦争を通じて、「産めや増やせや」の人口増政策に転換される。科学的根拠もない女性のお尻を「安産型」などと評していたのも、今となっては大変滑稽な話である。

ja.wikipedia.org

 

 

 

沢山美果子:性からよむ江戸時代.岩波新書,2020(9月25日第2刷発行)

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