浅学菲才の嘆息

力武晴紀さんの「ザボンよ、たわわに実れ 民主医療に尽くした金高満すゑの半生」を読んで

 戦前の民主医療・無産者診療所医療に尽力した金高満すゑ。1908年長崎県佐世保で生まれ育つも、小学校2年生で母を亡くし、2年後には父も逝去する。満すゑは佐治家の養女となり、新聞・書物などあらゆるものを読み尽くす読書家で、学力を発揮して佐世保高等女学校進学。天下の悪法治安維持法が施行された1925年、東京女子医療専門学校に入学し、医師の道に足を踏み入れる。学校では社会医学研究会に所属し、1923年後の関東大震災後のバラックでの学生による無料診療実践等を通じて、学内や社会の様々な課題に積極的に向かっていった。卒業間近の1931年3月に逮捕され、学校側の判断で医師としての卒業が見送られた。一旦、佐世保の佐治家に身を寄せるが、1931年4月には、佐治家と離別し、上京する。東京では、当時の医療のスローガンである「医療の社会化」に粉骨砕身する。1930年1月26日に日本で初めて開設された民主診療所となる大崎無産者診療所にかかわり、千葉北部無産診療所の支援なども行うが、医専を卒業していないために診療所に迷惑をかけないかの悩ましい期間を医師の補助的役割として奮闘する。1933年8月の一斉弾圧で検挙、起訴され、市川刑務所では卑劣な拷問を受け、「女性を辱める事までした」と口に出したくないことも後に語っている。獄中生活は拷問と貧食から衰弱し、病気中の1936年3月に出獄し、知人宅に身を寄せる。1938年に画家の桜井誠と結婚。医師としての道が遠のいたような日々が続いていた時、周りの知人の親切が実って、1939年4月女子医専の復学が叶い、1940年3月無事卒業する。復学時は、家事に雑誌の原稿を書き、アルバイトを行う過酷な期間も若さで乗り切ったと回想している。その後、新潟の葛塚無産者診療所への誘いに悩みつつ、同じ新潟の五泉無産者診療所に赴任する。雪深い新潟の地で、特にの往診は困難を極め、雪国を知らない満すゑは移動に際して大変な苦労をする。1941年4月3日の早朝、無産者診療所として最後まで活動を続けた五泉と葛塚の両診療所で一斉検挙を受け、1年半ほど新潟の警察署と刑務所に収監され、敗戦を迎える。

 戦後の金高満すゑは、東京の代々木診療所、愛媛県松山の協同組合診療所、岡山県の水島共同診療所などを経て、東京中野区の桜山診療所所長として長らく民主医療に尽くした。1997年12月31日逝去。3度の逮捕に挫けることなく、その生涯を通じて、「医療の社会化」に向けた民主的医療活動に尽力した金高満すゑの不屈の生涯をしっかり記憶に残したい。

 

力武晴紀:ザボンよ、たわわに実れ-民主医療に尽くした金高満すゑの半生.花伝社,2023(11月20日初版第1冊発行購読)

 

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