浅学菲才の嘆息

清水一行さんの「毒煙都市」を読んで

 1932年7月7日に勃発した盧溝橋事件の直後の、9月25日にM市の弾薬や肥料等を作る化学工場で2度の爆発事故が起こり、黄白煙が市内に流れ込む。直後より近隣の子供たちを中心として消化器症状や咽頭痛を訴え、症状のある子どもを連れた親たちが開業医の元に殺到する。事故直後より、赤痢と決めつけて対処を始める行政機関。臨床を知る医師達は、検便検査等を行わず連日徹夜で治療に奔走する。あまりの惨劇に、医学部や行政が動き出し対処にあたる。原因は赤痢か。赤痢であるなら上水道が原因だ。しかし、上水道は治水の悪いM市より遠く8キロ離れた水源から運ばれ、特許も持つ当時としてはほぼ完璧の濾過浄水機能を備えており、治水担当者は絶対の自信を持っている。人口11万人の都市で、推定1万人を超える感染者、死者は712人、日本に類例のない、赤痢感染事件として、調査が進み、半ば強引に水源から赤痢が混入した事件として、マスコミに公表され、大々的に取り上げられる。本当に原因は赤痢であったか、工場の爆発で汚染した物質はなんだったのか。今もM市・現大牟田市では、自主研究会が開かれ、原因の解明に向けた研究が続いている。

 

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閑話休題 国内の感染事案

文中より抜粋

昭和3年(1928年)に愛知県豊橋(とよはし)連帯で腸チフスが起こっている。4年前(1933年)には茨城県日立(ひたち)町で赤痢だ。5年前(1932年)にも、八幡(やはた)市(現北九州市八幡区)で腸チフスがあり、昭和6年(1931年)になると、千六百人の患者を出した長崎市の腸チフス事件がある。そして、十年(1935年)には君も知っていることと思うが、神奈川県川崎市の、例の赤痢大騒動だ。結局いずれも水道水の水から伝染している。君(中西氏)には不愉快かも知れないが、伝染病が発生した場合、原因調査でまず水道水を疑ってみるというのが、疫学の常識になっているんでねえ。

 

閑話休題 毒ガス戦と大牟田市

 従軍慰安婦問題の研究で有名な吉見義明氏の著書「毒ガス戦と日本軍(岩波書店,2004年7月28日第1刷発行)」によれば、日本軍の毒ガス戦を支えていた主な民間企業が三井財閥系であり、三井化学が重要な役割を担っていたことは、同書の記述で述べられており、日本軍毒ガスの主要工場の一つが大牟田市三井化学であった事は疑えないであろう。また、日中戦争開始を契機に工場は拡大され、その渦中に大牟田市の爆発赤痢が起きている。背景や初期患者の臨床像からは、ガス爆発による被害が濃厚とも考えられるが、今後の研究や検証が必要な事は言うまでもない。

 以下、同書文中より

日中戦争で使われた毒ガス兵器イペリオット製造のための最終中間製品、グリコール一号(チオジグリコース)、不凍り性イペリオット製造のためのグリコール二号、嘔吐性ガス製造のためのシモリンを三井染料工業で生産し、陸軍に納入した。そのはじまりは、1932年(満州事変の翌年)初め、陸軍が三井鉱山にグリコール一号の製造を委嘱したことであった。~中略~ここまでは、技術育成のための「教育注文」であったが、1937年7月に日中戦争が始まると、8月に陸軍からシモリン生産開始の命令が下り、9月から操業を開始した。海軍からも注文が継続した。同じ時期に陸軍からグルコール一号・二号の注文が、海軍からグリコール一号(海軍の呼称は「三号中間薬」またはオクゾールという)の注文が来たので、1938年1月までに増産設備を完成し、その後も大型反応塔を増設した。~中略~化学部門の軍需生産は爆薬が主だったことはいうまでもない。

 重工業部門では三井財閥住友財閥に遅れをとっていたが、化学工業では三井鉱山を中心に「有利な地盤を擁していた」ので、三井財閥の化学分門を統合・拡充すれば、三井重工業にも劣らない大会社を育成することも可能と考えられた。 

 

清水一行:毒煙都市.徳間文庫,1979(第1刷発行,1988年9月15日文庫初版発行購読)

 

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