浅学菲才の嘆息

赤瀬浩さんの「長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド」を読んで

 先日1995年初版の吉見義明さんの「従軍慰安婦」を読んでいて、

陸軍では、上海派遣軍の岡村寧次参謀副長副参謀長が海軍の慰安所を参考にして、1932年3月から(慰安所の)設置あたった。その回想によれば、上海で日本軍人による強姦事件が発生したので、これを防ぐため長崎県知事に要請して『慰安婦団』を招いたという(稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』戦場回想編)。シベリア・アジア・太平洋各地に、売春のために身売りなどで出て行かされた『からゆきさん』は、長崎県出身女性が多かったので、陸軍はまずそれに目をつけたのだろう。

と記載があり、なぜ長崎県の女性なのかとの疑問が残ったままモヤモヤしていていた。その後、時々参考にしている福岡県弁護士会の書評を閲覧していたら赤瀬浩さん「長崎丸山遊郭」が目にとまり、モヤモヤの答えとなるべき書籍ではないかと早速購読した。

 

 前振りは長くなったが、従来から交易のあった中国や韓国に加え、16世紀になってポルトガルや阿蘭陀(オランダ)船も来港するようになった。徳川幕府鎖国令が引かれ、徳川幕府では長崎の出島を交易の中心に、阿蘭陀や東南アジアを含む唐人が来港するようになり、博多から来た遊郭業者などによって、丸山遊郭を中心とした遊郭や町が広がっていった。家族や各町は遊女たちの稼ぎで生活し、妙齢(概ね25歳)を過ぎれば、地域に戻って結婚し、その子供たちが禿(7歳~15歳)として遊女に付き、貧農である長崎の町が大きく発展し、島原や天草からも遊女が集まるようになった。遊女たちは、オランダ人や唐人対して手練手管を駆使して、遊行費の出費や贈答品などを入手し、家族や地域に還元した。芸を磨き、多国の言葉を駆使し、マネジメント力を身につけた遊女たちは地域の大きな力になっていたのだろう。

 明治となり、遊郭は廃止され、公娼制と貸座敷制へ移行する中で、丸山遊郭も大きく変化した。その時代の変化の中で、多言語で会話できる長崎の女性たちは「からゆきさん」となり、慰安婦になったのではないかと推理するが、その背景を調べるのは今後の課題となりそうだ?

 

赤瀬浩:長崎丸山遊郭,江戸時代のワンダーランド.講談社現代新書,2021(8月20日第1刷発行購読)

 

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