浅学菲才の嘆息

川満彰さんの「沖縄戦の子供たち」を読んで

 アジア・太平洋戦争の末期、1945年3月末から敗戦の1945年8月15日以降も続いた日本国内で唯一の地上戦となった沖縄。牛島満中将率いる第32軍、現地召集の民間人、そして、年端もいかない子供たちまでが、看護要員、鉄血勤皇隊や護郷隊などとして、斥候、通信、諜報戦などのゲリラ戦に加担させられた。鉄の暴風による艦砲射撃でいのちを落とした者。病院豪の土砂に埋まって息絶えた者。何より、友軍や軍医から射殺され、母親や親族、地域住民から絞殺や撲殺された子供たち。国際条約であるハーグ陸戦条約により、捕虜、非戦闘員を保護しなければならないが、民間人や便衣兵に扮装する軍属も多く、大人、子ども、軍官民が総じて殺され、自決した。「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」の犠牲者は幾ばくか。沖縄語で「命こそ宝」の大切さ。

 沖縄戦が終わっても、戦争孤児として辛苦を舐めざるを得なかった生存者たち。戦争は必ず、弱い者が犠牲になる。軍官は、民間人を守らない。戦争のない、平和な世界が続くことを願う。

 世界では今、ウクライナNATO加盟を巡る緊張が高まり、ウクライナでは高校生が射撃訓練を行う映像が流れる。どこの戦争でも、上級の士官は助かり、一般兵卒や召集兵、非戦闘員である民間人が犠牲になる。

 私の記憶では、司令官で戦死・自決したのは、ミッドウェー海戦で大敗北し、サイパン島で自決した南雲忠一中将、硫黄島で戦死したとされる栗林忠道中将、戦艦大和の艦長伊藤整一中将、沖縄戦第32軍の牛島満中将(戦死の数日前に大将に昇進していたとされる)。その他の、多くの士官や将校が戦後も生き延び、末端の兵士は捨て石にされた。さらに戦後に追い打ちをかけられる遺族。戦後の軍人恩給は階級や所属年数で格差があり、中将クラスの遺族への恩給は年間1千万円程度とも言われ、下級の軍属には少額の軍人恩給に留まったとされる。また、沖縄などの非軍属・非戦闘員、国内の空襲被害者には、戦後補償がされていない事にも留意が必要だらう。

 

川満彰:沖縄戦の子供たち.吉川弘文館,2021(6月1日第1刷発行,9月1日第2刷発行購読)

 

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