浅学菲才の嘆息

玉川寛治さんの「飯島喜美の不屈の青春」を読んで

玉川寛治さんの丹念な歴史検証と熱意に、敬意を込めて

 飯島喜美は、1912年に千葉県の貧しい家庭に産まれ、尋常小学校卒業後の12歳から女中奉公に出され、15歳頃より東京モスリン紡績株式会社亀戸工場女工となる。週休1日、12時間勤務の2交代制という劣悪な労働条件に加え、10名程度が同室に住み込みをさせられる女工の生活環境の中で、賃金・労働条件や生活環境改善ために、わずか16歳でストライキを組織した。厳しい労働や生活環境にあっても、寸暇を惜しんで社会科学の学習を続け、仲間と連携し、組織強化を進める。その後、1930年にモスクワに渡って全世界の労働組合が集まった会議で、日本の婦人労働者を代表する堂々たる演説を行い、学習を積み重ねて帰国する。帰国後は、神奈川や静岡を拠点に、労働運動や女性の処遇改善のオルグを続けるも、1933年5月に検挙、拘留され、同年12月に起訴、栃木刑務所に収監される。飯島喜美に関する検挙から収監されるまでの実態は明かではない。しかし、同悪法で起訴、拘留された当時被害にあった証言録からは、虐待や凌辱を受けたことは間違いないだろう。起訴、収監されて2年半の間、独房生活と社会との隔離の中で、ちり紙や石けんなどの生活必需品にも苦心し、発病後もまともな手当を受けることなく衰弱が進み、1935年12月に結核等の悪化により病獄死した。残された父との手紙による交流や友人にあてた手紙から、飯島喜美の温和ながら凜とした姿勢が偲ばれる。その他、残したい遺品のコンパクトには「闘争、死」という言葉が刻まれており、死ぬまで闘い抜く事を後世に託したとも言える。

 先人の厳しい闘いの上に、日本国憲法国民主権、平和主義、基本的人権が確立された。一方で、厳しく取り締まり、虐殺や凌辱を行った側の官権は戦後も代議士や公的機関の要職を務め、軍部・軍属や731部隊に加担した医師・技師と同様であり、戦後日本の組織の闇もまたおさえておく事が重要であろう。

 

玉川寛治:飯島喜美の不屈の青春 女工哀史を超えた紡績女工.学習の友社,2019(6月15日)

 

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